1.橋つくり事始(その1) | 2.橋つくり事始(その2) |
3.リベットから溶接へ(その1) | 4.リベットから溶接へ(その2) |
5.コンピューターの利用(その1) | 6.コンピューターの利用(その2) |
7.製作ブロックの大型化 |
1.―――― 橋つくり事始(その1)―――― |
橋を作る、橋を架ける、どちらも広義には同じことですが、鉄で
できている橋では橋を作るのは工場での仕事、橋を架けるのは
現地での架設工事と使い分けます。 石や木の橋の時代では今日の工場のようなものはなく、材料は 産地の近くで運ぶのに都合のよい形と大きさに切りだされ継ぎ 手のほぞなどを加工して現地に運び込まれました。 材料の産地や架設の現場そのものが今日の工場に相当する役割を していたわけで、橋を作ると架けるは混然としていました。 世界で最初につくられた鉄の橋は1779年にイギリスの 中西部のセヴァーン川に架けられたアイアンブリッジです。今も なお現存するこの橋には300トンほどの鋳鉄と練鉄が使われたとさ れていますが、どのような工場でどのように作られたかが明らか になる記録は残っていません。 現存する橋は中央に継ぎ目があり 2分割されて作られたことはわかりますが、この合計10本の アーチリブと呼ばれる橋の骨組みなどがどのように製作されたの かには2つの説があります。架設地点から2Kmほどの場所に あった製鉄所の高炉わきで鋳型の中に銑鉄を流し込んで作られた 後、架設現場まで運ばれたという説と、架設現場のすぐ横に臨時の 高炉が建設されてそこで鋳込まれたという説です。 |
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2.―――― 橋つくり事始(その2)―――― |
工場で製品を加工するためには恒常的な設備投資が必要ですが、
鉄を工業製品の材料として加工を開始した18世紀の後半では、
まずはその材料を生産する場所の近くに加工の場所を設けました。 19世紀に入り先進諸国で産業革命が進展し鉄道建設が伸び鉄橋の 需要が拡大すると、もはや加工は材料元の軒先を借りて生産するの では追いつかなくなり分家を果たして加工工場として一家を構える ようになっていきました。これは加工工程の分化であり鉄板などの 材料を製品として購入してそれを別の工場で加工するようになり ました。 明治元年、2年とそれぞれ長崎と横浜に架けられたわが国では 初めての鉄の橋は、稼働まもない国内の加工工場でつくられました。 長崎のくろがね橋は幕府から明治政府が引き継いだ長崎製鉄所で、 横浜の吉田橋は現在の京浜東北線桜木町駅前付近に1868年に 設立された灯台寮でつくられました。 どちらの橋も、どのように してつくったか、詳しい記録は残っておりませんが、吉田橋の設計を したイギリス人のお雇い外国人のR.H.Bruntonの手記に わずかな記述があります。これによれば『剪断機械、穴明けの パンチング機械をある工場から借用し、材料は香港の居留地から手に いれ、日本人の職工によってこのトラス桁を組み立てた』とされて おります。 幕末から急速に導入された当時の先端技術である造船技術とこれに 伴う鉄板加工技術や輸入された機械設備、そしてお雇い外国人の 熟練工や日本人の職人の存在等が吉田橋の製作を可能としたものと 思われます。 |
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3.―――― リベットから溶接へ(その1)―――― |
戦後における橋つくりの最初の大きな変化の1つは、工場での
鋼板の接合方法がリベットから溶接に変わっていったことです。
戦前から戦後の戦災復興期そして30年代の初めまで橋梁工場は
リベットを打ち込む耳をつんざくばかりの騒音にあふれ、赤熱した
鉄片をハンマーで叩く鍛冶工がいそがしげに働く『鍛冶屋の工場』
でした。 加工の工程で今日では全く見られなくなってしまった当時の作業に、 火造り(ひづくり)という工種がありました。これは鍛冶屋さな がらの昔ながらの鉄の加工方法で赤熱した状態で鉄を曲げたり、 叩いたりして変形させて加工する方法です。 このような鍛冶仕事のハンマーの騒音、リベット焼きの煙も 自動溶接が導入されてリベット構造から溶接構造に変わっていく 中で次第に工場から姿を消していきました。 本格的に溶接が使われるようになるのは、戦前から使用されて いた手溶接に加えてアメリカのリンデ社製のユニオンメルト自動 溶接機が導入され始めた20年代末から30年代に入ってからで すが、その後の溶接技術の進歩、普及はめざましく、短期間に 橋梁の溶接構造の一般化が進みました。 |
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4.―――― リベットから溶接へ(その2)―――― |
溶接構造は薄い板厚の外板を簡単に組み立てて縦、横リブで補剛
して丈夫な版にすることをできるようにしました。このため、補剛
された版で大きな四角形の断面を作って桁橋とする、いわゆる箱桁
橋が戦後の新形式として昭和30年頃から登場しました。 外面が平滑で外観が良くT桁(アイ桁・鈑桁)に比べて捩じれに 強く支間も長くとれ、かつ維持の面でも利点があることから、現在 最も普遍的な橋梁形式の一つとなっています。 同様に縦横のリブで補剛された鋼板をもって床とする、いわゆる 鋼床版も昭和30年前後に現れました。この構造も溶接接合なしに は考えられない構造です。鋼床版は普通のコンクリート床版の重量 に比べて半分ぐらいの軽量であるため、長大橋でその利点は特に顕 著で、これも戦後になって現れた形式である斜張橋の発展も鋼床版 の存在に負うところが大きいといえます。 また、溶接はどんな複雑な形状の橋桁の製作も可能にしました。 特に狭隘な都市空間を利用して建設される都市高速道路では複雑な 形状となることが多く、溶接とそれに伴う製作技術の進歩がこうし たニーズに答えてきました。アメリカ製の自動溶接機が橋梁製作に 使われるようになってから40年以上たった現在では、数値制御さ れた人間の腕の動作に近い動きの出来るいわゆる多関節ロボット溶 接が利用されるようになっています。 |
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5.―――― コンピューターの利用(その1)―――― |
橋つくりの分野でも他の分野と同様にコンピューターの利用は
まず技術計算や事務処理から始まりました。橋の設計は道路線形の
計算や構造解析が主体であることから、土木の分野では比較的早く、
すでに昭和40年代のはじめ頃からコンピューターが利用されてい
ました。 コンピューターの加工工程への利用は、造船の分野で開発された 自動け書き機や自動ガス切断機が橋梁工場に取り入れられ始めた 昭和45年頃からで、こうした自動化機械の導入は製作工程の入口 にあたる原寸作業を一変させました。 原寸作業は服の仕立てで布地の裁断に先立って行われる型紙を つくる工程に相当し、コンピューター以前は、設計図をもとに 原寸大の図面が大きな部屋の床に描かれていました。原寸工場は 幅15m、長さ50〜60m以上の大きな建屋で床は、木板張りか 鋼板張りが普通でした。床のスペースは限られており、いくつもの 橋の原寸図が同じ床に重ねて描かれましたが、どの工場にも ベテランの原寸工がおり、彼らはいとも簡単に床に描かれている 何本もの交錯した線の中から必要な寸法を読み取ってゆく名人芸を 発揮しました。 |
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6.―――― コンピューターの利用(その2)―――― |
原寸作業のプログラムが次々と開発されるにつれて、原寸場は
どんどん縮小され、それまで床にはいつくばって作業をしていた
原寸工は机に向かって盛んにインプットデータを書き込むように
なっていきました。 コンピューターの日進月歩の発展に伴い、一昔まえならビルの 大型コンピューター室で稼働していたようなものが、簡単に原寸 場に設置され、あるいは端末機が何台もおかれたりして、ついに かっての金尺や巻尺定規を手に床に原寸図を書く様子は姿を消して しまいました。 コンピューターが使われるようになった初めの頃はプログラムの ミスや大型コンピューターの演算待ちにより簡単にアウトプットが 出ず、これなら床に書いた方が早いとベテラン原寸工の愚痴も しばしばでる始末でした。しかしこのような試行錯誤の結果、少し ずつ問題を解決し、今日設計から原寸、加工、さらに仮組立までの 一貫した情報をコンピューターシステムにより、生産工程は格段の 省力化をなしとげ、今後本格化する建設CALSへの移行を容易に しています。 |
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7.―――― 製作ブロックの大型化 ―――― |
リベット橋の時代は加工した部材片を一つづつ順番に組み立て
て行く、丸組みと呼ばれる方式が一般的でした。橋自体もそれほ
ど大きくなかったので、工場内の運搬設備はせいぜい10〜20
トンの天井クレーンが主流でした。昭和30年代に入って溶接機
に切り替わると橋の規模も大きくなり、作り方も大きく変わりま
した。 生産方式のライン化が進み、工場の入口から投入された鋼板が 出口に向かって移動するにつれ、橋桁のブロックが形づくられる ようになりました。大半の橋は架設現地まで橋桁ブロックをトラ ック輸送するので、輸送経路の道路の状況や架設に使う機材の容 量などが工場でつくるブロックの大きさの決め手となりました。 本四架橋の工事によって海上橋が増えると、工場は海上輸送が できる海に面した岸壁を持つことが製作ブロックの大型化の必要 な条件となり、工場のクレーンの能力も50〜100トンと大型 化していきました。このブロックの大型化も20世紀後半の日本 における橋梁建設の特徴といえます。 |
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