橋 の 知 識

  古今東西の橋  

1.アイアンブリッジ(イギリス)
2.日本橋(東京)
3.カペル橋(スイス)
4.松住町架道橋(東京)
5.アルク高架橋(マルセイユ)
6.ブルックリン橋(ニューヨーク)
7.富士川水管橋(静岡)

〜世界で最初の鉄の橋〜 アイアンブリッジ
1.アイアンブリッジ(イギリス)
 橋の材料としては、古来より石や木が使われてきたが、18世紀になって始めて鉄の 橋が誕生した。最初の鉄の橋がこのアイアンブリッジで今なおイギリスに現存する。  鉄は強度が強く優れた材料であるが、構造物などの大きなものに使うには高価すぎた。 大量でしかも安価な鉄を手にするには石炭製鉄の出現まで待たなければならなかった。 不純物を含まない木炭は製鉄に適した燃料であったが、薪の伐採のために森は丸裸にされ 燃料の枯渇をまねいた。ふんだんにある石炭は、不純物の硫黄を含むことから製鉄の 燃料とするとなかなか良い鉄が作れなかった。
 18世紀になってコークスで鉄鉱石から鉄をとりだす製鉄法が成功すると産業革命が 一気に加速した。蒸気機関のシリンダーに鋳鉄が使われ鉄製の柱をもつ丈夫な建物も 出現した。鉄製の教会のドアや小型のボート、そして鉄製の墓石まで現れたという。 世界で最初の鉄の橋、アイアンブリッジは石炭製鉄によって意気の上がる新材料の鉄時代の 幕開けとともに生まれた産業革命の生き証人である。
 1779年に完成したこの橋はそれ以前の石造アーチの形に倣い、約300トンの鋳鉄と錬鉄を 使って架けたもので長さは30mほどある。この橋が足かけ4世紀に亘って生き続けること ができたのは、古い価値あるものに対する人々の愛情を見逃すことができない。世界文化 遺産に指定されたこの世界最初の鉄の橋はイギリスだけでなく文字通り世界の遺産となって いる。
 ロンドンから特急で2時間弱のテルフォード駅から南5Kmほどのその名も アイアンブリッジ(地名)のセバーン川に架かる橋は、周囲の産業遺構と併せて産業革命の 博物館を構成し歴史好きのイギリス人や外国人の隠れたスポットである。
((社)鉄道貨物協会発行「JRかもつ」4月号より)
先頭へ

nihonbashi.jpg 〜重要文化財〜
2.日本橋(東京)
日本橋の歴史は江戸時代とともに始まった。日本橋が最初にかけられたのは徳川家康の 入府間もない慶長8(1603)年のことで、以来幾度となく火事で焼失しては、 架け替えられてきた。
 橋は単に障害物を越えるだけでなくその橋詰には、高札が立てられ市がたち、 人々の集うプラザの役割をもってきた。日本橋周辺には後に築地に移転した魚河岸や米、 材木河岸があり、このほかいろいろな物産が日本橋川の水運によって運び込まれる 物流の拠点であった。日本橋界隈は人や荷車の行き交う賑わいの絶えない花のお江戸の 中心地であった。
 この橋の中央が五街道の起点と定められ、今日ではプレートの道路元標が設置されている。
 江戸から明治まで日本橋は何代にも亘って木の橋が架けられてきたが、 明治末になって初めて現在の橋である石橋が架設された。
 明治44(1911)年に建設された 日本橋は、平成11年に建設88周年を迎えた。この記念行事では米寿のお祝いにふさわしく 国道の橋としては初の重要文化財の指定を受けた。
 橋は目立つ存在であるが故に、為政者の意図が反映されていることが多い。 帝都の顔である日本橋も例外ではなく、明治政府の威信がこの橋にかけられている。 和漢洋の折衷といわれているが、明治以前の石橋と比べると西洋の影響を大きく受けている。 2連の石造アーチは、円弧が浅く、材料には花崗岩が使われ、内部には煉瓦と コンクリートが使用された。照明灯や欄干を含めて全体的にはルネッサンス様式である。 橋の規模は、幅員が27.3mで橋長は49.1mある。
 日本橋は昭和39年に開通した首都高速道路で上を覆われてしまったが、 最近になって国土交通省は、首都高速道路の地下化などによって建設当初の日本橋の 景観を復活させる検討を始めようとしている。
((社)鉄道貨物協会発行「JRかもつ」5月号より)
先頭へ

〜屋根のある橋〜 カペルブリッジ
3.カペル橋(スイス)
 ヨーロッパでは中世以前から屋根付きの木の橋が建設されてきた。この技術は、17 世紀以降、ヨーロッパから新大陸に渡った人たちによってアメリカに伝えられて、  ニューイングランド地方の他、各地で盛んに建設されていった。映画の題材となった マディソン郡の橋もヨーロッパ大陸にそのルーツがある。
 本家のヨーロッパで建設された屋根つきの木の橋はスイスでその数が多く、これらの 中でもこのルッツェルンのカペル橋は、規模の大きなものである。
 チューリッヒから南に約60Kmほどの湖のほとりに開けたルッツェルンは、中世には ドイツからイタリヤへ抜ける
主要街道の通る街であった。中世の他の都市と同様に、 ルッツェルンも周囲を城壁で囲まれていたが、この壁は湖に注ぐロイス川によって断ち 切られていた。橋は川を横断するだけでなく、湖から川をさかのぼって侵入する外敵を 防ぐ意味もあって、河口付近に建設された。これがカペル橋で1300年頃である。
 川を斜めに横断するカペル橋の中央部付近にはとんがり屋根の塔があって橋はここで折れ 曲がって対岸に達している。橋の両側には花がいつも美しく飾られ、シンボルの石造りの 塔とともにルッツェルンの観光名所となっている。
 しかし、残念なことに橋に係留されていたボートからの出火でこの木造橋は1993年 8月14日の夜半に全体の3分の2が焼け落ちてしまった。カペル橋は19世紀に両端の 一部が切り取られて短く改造されたが、約700年近くも大切にされてきたヨーロッパ 最古の橋であった。焼け落ちた橋は、旧橋の石の基礎の上に残った木をできるだけ使って 建て直され1994年4月に再び開通した。
((社)鉄道貨物協会発行「JRかもつ」6月号より)
先頭へ

matuzumi.jpg 〜電気街”秋葉原”の橋〜
4.松住町架道橋(東京)
 電気街の東京秋葉原は、橋の街でもある。総武線、山手線、中央線の3本で囲まれる 三角地帯の真中の万世橋交差点に立って、四方を見ると電気店の派手な看板越しに、 オレンジの中央線、黄色の総武線、緑の山手線の電車が通る橋が目に入る。
 東京都内のJR線が現在の形となったのは昭和7年のことであったが、総武線はそれまで 秋葉原を はさむ区間でまだ繋がっていなかった。
 上野を経て秋葉原で終点であった山手線は、大正5年に神田を経て東京駅まで繋がった。 中央線は、東京駅が起点となったのは大正8年のことである。新宿方向から四谷、飯田橋、 御茶ノ水と東に伸びながら、最後に
万世橋を経て、神田、東京と繋がって東京駅に起点が移った。
 千葉方面から錦糸町を経て、両国で終点であった総武線が、隅田川を渡り、浅草橋、 秋葉原を経て御茶ノ水まで開通したのは、昭和7年のことである。これでほぼ今日の山手線、 中央線、総武線の形が出来上がった。
 最後の区間であった御茶ノ水と両国の区間の建設は、すべてが高架橋で、橋や駅の建設には、 当時の最先端の技術が駆使された記念碑的な区間であった。
 秋葉原駅で山手線の上を越える 総武線は、高さが16メートルにもなり、国鉄駅で最初のエスカレーターがとりつけられた。橋梁も 隅田川を渡る隅田川橋りょう、神田川橋りょう、秋葉原駅から浅草橋への鉄筋コンクリートの高架橋などと ならんで、この松住町架道橋も当時の最先端の橋梁技術で建設されたものである。
 この橋は、タイドアーチと呼ばれる形式で、鉄道橋としてはわが国で始めて建設された もので、スパンは約72メートルである。
((社)鉄道貨物協会発行「JRかもつ」7月号より)
先頭へ

〜フランスTGVの橋〜 アルク高架橋゙
5.アルク高架橋(マルセイユ)
 フランスの新幹線TGVは、20年前の1981年に最初の区間、パリ−リヨンが 開通して以来、パリから北部へ伸びる北線、南西方面への大西洋線、リヨン南の地中海線 と延伸されていった。今年の6月には地中海線が開通し、パリからリヨン、アビニョンを 経てマルセイユまでの800Kmが3時間で繋がれた。
 TGVの橋は、建設が始まった当初、すべてがコンクリートの橋であったが、その後、 だんだん鋼材を使った橋へと移行していった。最近では全体の約70%の橋が、鋼材を使った 橋となり、コンクリートの橋は少なくなった。
 鉄筋コンクリート床版を鋼桁で支えるTGVの橋は、軌道バラストや厚い床版、厚肉の 鋼板が使われているため、昔の鉄橋のイメージである鉄橋特有の音はしなくなった。
 このアルク高架橋も鋼材を使った橋である。マルセイユの北20Kmほどのところに位置 するこの橋は、上路式パイプトラス構造とよばれる構造形式である。矩形断面の曲弦を 支点部で結合して連続構造とした特異な構造形式で、スパンは44メートルである。
 フランスでも南部のプロバンス地方では、設計にあたって地震を考慮にいれており、 桁と脚の結合点構造に工夫がこらされている。また、橋のつなぎ目は、床を連続化するなど 車両による角折れを少なくして車両走行による振動を緩和するよう工夫がこらされている。 また設計の意匠面への配慮がなされるように、デザイン専門の建築家と橋梁設計者のチーム による設計コンペが行われた。
 フランスの新幹線、TGVは今後さらにパリからフランス東部のストラスブール方面まで 伸びる東線が設計段階にある。
((社)鉄道貨物協会発行「JRかもつ」8月号より)
先頭へ

burukurin.jpg 〜近代吊橋のはじまり〜
6.ブルックリン橋(ニューヨーク)
 ハドソン川とイーストリバーで隔てられたニューヨークは摩天楼と吊橋の街である。 とりわけマンハッタンのダウンタウンと対岸のブルックリンを結ぶブルックリン橋は、多くの 人々に親しまれてきた。マンハッタンの摩天楼を背景とした石造タワーのブルックリン橋は、 もっともニューヨークらしい風景のひとつである。
 この橋の車道の上には木製デッキの歩行者用道路があり、ニューヨーカーの散策の場となって いる。ブルックリン橋のすぐ南側にあるはとばノピア17からこの橋を望むと、その向こう側に さらに2つの吊橋が目に入り、吊橋の街ニューヨークが実感できる。
 この橋のたもと一帯には市庁舎が建ち、世界の金融街であるウォールストリートや、 すぐ北には中華街があり、ニューヨークのダウンタウンを形成している。
 スパンが486mあるブルックリン橋は、近代吊橋の出発点として記念碑的な吊橋である。 1883(明治21年)年に完成したこの橋には、当時まだ構造用としては珍しかった鋼が、 ケーブルやいろいろな個所にふんだんに使われた。19世紀末は、製鉄産業のトップの座が ヨーロッパからアメリカに移りつつあった時期であり、ブルックリン橋は産業史の生き証人 でもある。
 20世紀に入ると、ニューヨークではウイリアムズバーグ橋(1903年、488m)や マンハッタン橋(1909年、448m)が相次いで建設された。ブルックリン橋に始まった 近代吊橋建設の流れは、この後ゴールデンゲート橋(1937年、1280m)を経て、 ベラザノナロウズ橋(1964年、1299m)へと連なり、さらにヨーロッパ、アジアに 及び、20世紀の最後になって世界最長の明石大橋(1998年、1910m)の完成に至った。
 20世紀は、吊橋が長足の進歩を遂げた世紀であったが、その背後には19世紀末に 完成したこのブルックリン橋の存在がある。
((社)鉄道貨物協会発行「JRかもつ」9月号より)
先頭へ

〜富士山を背景とする橋〜 富士川水管橋(静岡)
7.富士川水管橋(静岡)
 東海道新幹線が富士川を渡る時に、富士山を背景として目に入るこのアーチ橋は、 最も多くの人に馴染みのある橋のひとつである。
 橋は姿形に表れる構造の種類で分類することができるが、橋に載せて渡すものの種類で分類することもできる。
 橋の分類には、鉄道を渡す鉄道橋、自動車などを通す道路橋、もっぱら人を渡す歩道橋がある。 通常ガス管や、電信、電力ケーブル、水道管などは、道路橋などと一緒に添架物 として桁の中などを通すことが一般的であるが、ガス管、電信ケーブル、水道管のみを渡す 専用の橋もある。これらを、ガス管橋、電纜管橋、水管橋などと分類する。南フランスには、 ローマ人が水道水を引くために建設した専用の水道橋が遺跡として残っている。
 変わった橋では、舟を渡す運河橋がある。国内ではほとんど見られないが、イギリスなどでは、 縦横に走る運河が谷間や道路を渡る個所にこの運河橋が見られる。自動車が通る道路の上を 舟がゆっくり通り過ぎてゆく光景は面白い。
 この富士川水管橋は、文字通り水道管を渡す目的で架けられた橋で、水道管を富士川を 越えて渡す目的で、昭和45年に建設された。
 水道管自体を橋の部材の一部に兼ねる構造となっており、アーチの下弦材の中に水道水を 通すランガー桁と言われる構造形式である。この形式は比較的規模の大きな水管橋で、 一般的に採用される構造であるが、この富士川水管橋は、わが国で最大規模の水管橋である。
 約1kmの川幅を10連のアーチで渡るもので、最大スパンは102mで、全長1040mである。 使われた鋼材重量は4100トンである。
 新幹線の車窓から、このリズミカルな橋が目に入れば、もう静岡は近い。     
((社)鉄道貨物協会発行「JRかもつ」10月号より)
先頭へ
橋の知識の目次へ戻る